恵那山(えなさん)「日本アルプスの父」とまで呼ばれた山好きなイギリスの宣教師ウェストンは、国鉄東海道線から分かれた中央線がまだ中津川まで通じていない時代、つまり明治26年(1893)の5月、はるばるとこの東美濃の恵那山に登っている。

彼の名著「日本アルプスの登山と探検」には、その恵那山紀行が収められていて興味深い。
彼は同行英人二名と共に岐阜駅で東海道線と別れ、まず人力車で中山道を走らせ、太田に着き一泊、翌日は馬車を雇ったが釜戸で棄てて再び人力車に乗り、夜に入ってようやく中津川に到着、田丸屋という宿に投宿する。

宿の主人から大変鄭重なもてなしを受けたが、恵那登山につぃてはあの聖山へは、神主が正式に山開きを宣する六月までは、誰も足を踏み入れない方がいいと、熱心に忠告される。

雲に呑み込まれてしまうだろうとおどされたりもするが、いくら説いても登山を止めそうにないことが分かって、主人も結局は人夫を見つけるために骨折ったりして協力することになる。

翌朝人夫二名を連れて中津川東南方の八幡神社のほとりから「ショウガダニ」を登り、恵那神社を経て山頂に達するのであるが、山頂の展望を次のように述べている。

「一番高い地点には展望所があって、骸骨のような木の尖塔を聳えさせている。
その素晴らしい展望については到底筆紙には尽くされない。その展望の広漠さは高い隣の駒ケ岳のそれに非常に似ている。眼界には半円形に多くの巨山が聳え立ち、その山々はどれもまだ壮大な肩に肩に処女雪の白い衣をつけている。
すべてのうちで恐らく一番目立つ山姿は、真東に聳える赤石山の優美な姿であろう。その南の肩から、英鋒富士の戴頭円錐形の山頂が雪を頂きくっきりと外郭を示して、澄みわたった空に聳えている」

以上は、父 故永冶輝美 の著書「恵那地名考」の始めの文章であるが、恵那市と中津川市の地名研究の264ページの本からの引用である。
この本は、父が73歳の時朝日新聞名古屋本社編集製作センターから出版しているが、当時ドナルド・キーンさんの目に留まり、コロンビア大学の図書館に文献として納められた。

序文は、日本地名学研究所長池田末則先生で、「地名は古代方言の化石であるー。」から 始まっている。父は、あとがきに「東西南北、あまたたび現地調査の歩は運び、得らるる限りの文献資料を渉猟して、財を傾け歳月を重ねて語義の解明に努めても、名にも金にもならぬとあっては、地名研究は王侯貴族の学か」と書いている。

大正4年(1915)生まれの父は、親の反対にも関わらず独学で日本大学芸術科に入る。学生時代は、赤坂の陸軍参謀本部の士官学校で、士官養成の授業用のテキスト(機密書類)をガリバンで製作するアルバイトをしていた。
虫垂炎から重症の腹膜炎を併発、東大病院で都築教授の手術を受け奇跡的に一命を救われるが都落ちをし、徴兵も免れその後故郷で神主の娘(母)と出会う。

今、父が晩年に遠くを見るように語った深い溜め息とも思える言葉が思い出される「今の日本は、本当に呆れるほど政治も文化もだめになってしまった。その理由の1つは、当時文化系の学生は特攻隊でみんな殺されてしまったからだ。日本経済がまだ強いのは、理科系の学生は産業や工業の為にと、保護されて殺されなかったからだろう。あの時、健康であったら僕も特攻隊で飛ばされ、今こうして生きてはいなかっただろう。文化、芸術系の学友は全員死んでしまった。僕は、本当に生き残りとなってしまった。」

父は、その奥にお寺があるのかと思われるような、白萩の長い並木道を家への通路に作った。その意味を聞く機会を失ったが、92歳で他界し3回忌を終えた今、何だかその白萩の並木道への思いがよく分かるような気がする。

4姉妹の3番目に生まれた私は、(上の姉が数ヶ月で亡くなり今は3姉妹)生まれた時から始まり、親の期待を残念ながら何回も裏切ってきた。
が、1つだけ親孝行が出来たと思う事がある。父が84歳の時、変形性関節症で右膝に激痛があり、どんな病院や治療医院でも治らなかったが、ドイツから送ったDr サプリメントで嘘のように回復し、まるで青年の如く若い歩き方、とご近所の評判になった事である。
一時帰国した時は、自家製のリキュール入りの紅茶を飲みながら、色々と夜遅くまで話をし、とても楽しかった事が 思い出される。

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