24.08.2009 am Montag
author : 永冶ベックマン啓子 Keiko Nagaya Beckmann
大正13年(1924年)日本最大で初めての大井ダムが、私の故郷岐阜県の恵那市(当時は恵那郡)と中津川市の境を流れる木曽川に建造され、日本土木史の先駆けとなった。そして、次々と7つのダム工事が続いて為された。
木曽川は、長野県の木曾郡木祖村の鉢盛山(2,446M)南方の源流部では味噌川とも呼ばれ、岐阜県、愛知県、三重県を流れて伊勢湾に注ぐ一級河川である。
建設は「半川締切工法」で行われ、洪水もあり困難を極めたが、日本発の女優マダム貞奴の援助もあり、当時世界のビッグ・プロジェクトの1つに数えられた。
本格的ダム型式・重力式コンクリートダム発電所で、堤高は53.4メートル、堤頂長は275.8メートル、この上をダム人造湖百選に2005年指定された恵那峡を見ながら歩く事も出来る。私が高校生の時はこの湖でレガッタを漕いだ。
減勢工は川岸の岩との関係で複雑な形をし、モダンアートにも見える。
クレスト部に並ぶラジアルゲートは黒で、今でも堤体のコンクリートは所々茶色の鉄サビ着色が見られるが、比較的新しく見え、なかなか美しいダムである。
魚釣りの上手かった父は、このダムの直ぐ下近くで鮎、ウグイ,山女、鮠、鰻、河マス,鯉等何時も沢山釣り、小さい魚は家の池に放されていた。
子供の私は子犬のように何回も父の魚釣りについて行き、川原で遊んでいた。今でもあの頃の川の流れる音と匂いと丸い岩の暖かさが懐かしく思い出される。
放水前にはサイレンで合図があり、あわてて岸辺を離れ、その滝のような勢いの水の流れを何時も見とれていた。
「 支えたるこの水圧よ二十余門のテンターゲートの鉄板の張り 」
「 ゲート漏る水あしはやく壁面をつぎつぎくだる白き尖り秀(ほ)」
これは歌人でもあった父 故永冶輝美の作。
子供の頃より、このダムは福澤諭吉の養子だった日本の電力王とも呼ばれた中部地方での大実業家の福澤桃太郎が造った事を聞いていたが、大井発電所の礎石には「独立自尊」と福澤諭吉の言葉が刻まれている。
ダム建造にはアメリカ人の技師3人が来て、その時通訳をしたのは故山本茂叔父さん(後岸内閣の通産省次官、その後中小企業信用保険公庫総裁)、島崎藤村のお兄さん達が自然環境の変革に大きな反対運動をした事、筏流しで木材を運搬する人達が仕事を失った事など、工事が難航した事等白黒の写真を見ながらその頃の話を祖母や父から何回も聞いた。
私が始めて写真で見た外国人・アメリカ人の技師達は背がそんなに高くなく、隣に立つ叔父さんの方がよほど背が高くて子供心に素敵に思えた。
福澤桃介は明治元年(1868年)埼玉県で生まれ旧姓は岩崎、明治16年福澤諭吉の慶応義塾で学び、その時英才とダンデイな美男振りが認められ、明治20年(1888年)福澤家に入籍して諭吉の次女房の婿養子となる。
同年アメリカに渡り、ペンシルバニア鉄道の見習い研修をして帰国している。
肺結核になるも株式投資で、当時日清戦争時10万円(現在の約20億円)の利益を上げて、瀬戸鉱山、大同電力(関西電力と中部電力)設立、また減東邦ガス、名古屋鉄道、大同特殊鋼、日清紡績と次々に設立して実業界に進出する。
その後、政治活動にも入り、政友倶楽部に属した。
大正12年(1923年)9月1日マグニチュード7,9の関東大震災の影響で財政面で行き詰まった折に、桃介はアメリカに渡り、2万5千ドルの外貨導入に成功した。前大統領タフト、モルガン財閥のラモンドら政治財界の大物を前で話をし、世界最大の富強を誇るアメリカを最初は褒め称えた。
その後で「しかし、アメリカは黄金の毒素によって、今にローマ帝国のように衰亡する道を歩いている。 そのアメリカから、黄金の毒素を僅かながら取り出してやろうとする私は、実は貴国から感謝されていいはずです」と話して、大喝采を受けた。
桃介の電力事業の評価は極めて高く、元老山縣有朋、西園寺公望、発明王エジソン、フランスのクレマンソー前首相、無線電信の発明者マルコーニらが賞賛のメッセージを寄せた。名古屋市の日泰寺に追憶碑があり、70歳で亡くなり墓地は多磨霊園墓にある。(Wiki 参考)
日本と言う国は、日本人魂を自覚した日本人が自らの主義主張と考えで威厳を保ち、自分と国を守る、この「独立自尊」は極当然の事だと私は思うが、福澤桃介は墓場の影から今日の日本を一体どのように見ているのであろうか。
木曽川は、長野県の木曾郡木祖村の鉢盛山(2,446M)南方の源流部では味噌川とも呼ばれ、岐阜県、愛知県、三重県を流れて伊勢湾に注ぐ一級河川である。
建設は「半川締切工法」で行われ、洪水もあり困難を極めたが、日本発の女優マダム貞奴の援助もあり、当時世界のビッグ・プロジェクトの1つに数えられた。
本格的ダム型式・重力式コンクリートダム発電所で、堤高は53.4メートル、堤頂長は275.8メートル、この上をダム人造湖百選に2005年指定された恵那峡を見ながら歩く事も出来る。私が高校生の時はこの湖でレガッタを漕いだ。
減勢工は川岸の岩との関係で複雑な形をし、モダンアートにも見える。
クレスト部に並ぶラジアルゲートは黒で、今でも堤体のコンクリートは所々茶色の鉄サビ着色が見られるが、比較的新しく見え、なかなか美しいダムである。
魚釣りの上手かった父は、このダムの直ぐ下近くで鮎、ウグイ,山女、鮠、鰻、河マス,鯉等何時も沢山釣り、小さい魚は家の池に放されていた。
子供の私は子犬のように何回も父の魚釣りについて行き、川原で遊んでいた。今でもあの頃の川の流れる音と匂いと丸い岩の暖かさが懐かしく思い出される。
放水前にはサイレンで合図があり、あわてて岸辺を離れ、その滝のような勢いの水の流れを何時も見とれていた。
「 支えたるこの水圧よ二十余門のテンターゲートの鉄板の張り 」
「 ゲート漏る水あしはやく壁面をつぎつぎくだる白き尖り秀(ほ)」
これは歌人でもあった父 故永冶輝美の作。
子供の頃より、このダムは福澤諭吉の養子だった日本の電力王とも呼ばれた中部地方での大実業家の福澤桃太郎が造った事を聞いていたが、大井発電所の礎石には「独立自尊」と福澤諭吉の言葉が刻まれている。
ダム建造にはアメリカ人の技師3人が来て、その時通訳をしたのは故山本茂叔父さん(後岸内閣の通産省次官、その後中小企業信用保険公庫総裁)、島崎藤村のお兄さん達が自然環境の変革に大きな反対運動をした事、筏流しで木材を運搬する人達が仕事を失った事など、工事が難航した事等白黒の写真を見ながらその頃の話を祖母や父から何回も聞いた。
私が始めて写真で見た外国人・アメリカ人の技師達は背がそんなに高くなく、隣に立つ叔父さんの方がよほど背が高くて子供心に素敵に思えた。
福澤桃介は明治元年(1868年)埼玉県で生まれ旧姓は岩崎、明治16年福澤諭吉の慶応義塾で学び、その時英才とダンデイな美男振りが認められ、明治20年(1888年)福澤家に入籍して諭吉の次女房の婿養子となる。
同年アメリカに渡り、ペンシルバニア鉄道の見習い研修をして帰国している。
肺結核になるも株式投資で、当時日清戦争時10万円(現在の約20億円)の利益を上げて、瀬戸鉱山、大同電力(関西電力と中部電力)設立、また減東邦ガス、名古屋鉄道、大同特殊鋼、日清紡績と次々に設立して実業界に進出する。
その後、政治活動にも入り、政友倶楽部に属した。
大正12年(1923年)9月1日マグニチュード7,9の関東大震災の影響で財政面で行き詰まった折に、桃介はアメリカに渡り、2万5千ドルの外貨導入に成功した。前大統領タフト、モルガン財閥のラモンドら政治財界の大物を前で話をし、世界最大の富強を誇るアメリカを最初は褒め称えた。
その後で「しかし、アメリカは黄金の毒素によって、今にローマ帝国のように衰亡する道を歩いている。 そのアメリカから、黄金の毒素を僅かながら取り出してやろうとする私は、実は貴国から感謝されていいはずです」と話して、大喝采を受けた。
桃介の電力事業の評価は極めて高く、元老山縣有朋、西園寺公望、発明王エジソン、フランスのクレマンソー前首相、無線電信の発明者マルコーニらが賞賛のメッセージを寄せた。名古屋市の日泰寺に追憶碑があり、70歳で亡くなり墓地は多磨霊園墓にある。(Wiki 参考)
日本と言う国は、日本人魂を自覚した日本人が自らの主義主張と考えで威厳を保ち、自分と国を守る、この「独立自尊」は極当然の事だと私は思うが、福澤桃介は墓場の影から今日の日本を一体どのように見ているのであろうか。
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