10.04.2009 am Freitag
author : 永冶ベックマン啓子 Keiko Nagaya Beckmann
7世紀から8世紀の頃、今のミュンヘン市付近では、イザール川の畔に小さな村が幾つか散在していた。そこにベネディクト修道院が建てられ、修道士が多く住んでいる所と呼ばれていた。その後、南ドイツには驚くほど多く同派の大きな修道院が建てられ、今でも残っている。
カトリック教会で一番古く、西ヨーロッパでは一番古い歴史を持つ修道会がベネディクト会である。529年ヌルシアの聖ベネディクトが、ローマの南方の山、モンテ・カッシーノに創立したのが始まりで、彼の妹スコラステイカも同じ規律内容で女子修道院を開いている。
修道院はドイツ語でクロスタ―と言うが、修道士はモンヒ、子供の修道士を
モンヒェンと言い、これがなまってこの地域をミュンヘンと呼ぶようになった。
ミュンヘンの名前が文献に初めて見られるのは1158年であるが、14世紀になって子供の修道士がミュンヘン市の紋章に取り入れられた。
ミュンヘンの新市庁舎(1867-1909)は戦争の折に、旧市内は全滅だったがこれだけは残り、80mの尖塔の一番上には、子供の修道士が両手を広げ、左手に宣誓書、右手は誓いの指で立てられている。大変真面目なシンボルである。
修道服が黒なので「黒い修道士」と呼ばれたが、胸のところに黄色い十字のストライプは入っている。ここから、ミュンヘン市の旗は、黒と黄色(現在は金色)の2色の旗になっている。ちなみに、州の旗は自由のシンボル青と白、ドイツの三色国旗は黒、赤、黄色(金色)その意味は、国民の勤勉と力、国民の熱情、国民の最高の名誉を意味している。
「聖ベネディクトの戒律」は、大変厳しく、それまでのように個人中心の考え方ではなく、清貧、貞潔、従順、定住を大切にし、共同の修道生活規範を守り、私有財産は一切持たず、労働と祈りと学びを中心とする生活を始め、これは現在までも続けられている。日本の禅寺との交流も為されている。
6世紀以降は、キリスト教の布教の他古代文化や学問の保存、研究に大いに貢献して、ありとあらゆる学問芸術の中心地となり、ワイン、ビール、薬草の研究などでも知られるが、現在は寄宿舎付の有名な学校もある。
この修道士や王侯貴族達しかラテン語の文字を判読できず、1517年マルチンルターが苦労してラテン語からドイツ語に新訳聖書を翻訳し、初めてここにドイツ語の基礎が出来上がる。市民は文字が読めず、目印に屋号が発達し、ロマンチック街道の中世の街ローテンブルグ(赤い城砦)やディンケルスビュール(小麦の岡)には、鉄の屋号が多くぶら下がり残る。(現在は装飾用)
南ドイツに関する一番古い文献は、紀元前58年から51年にかけて8年間に渡るガリア遠征を、ユリウス・カエサル(英語読みがシーザー)が自らの手で書き残した「ガリア戦記」で、「アルプスを越えるとそこは、暗い森と湿原沼地の多い所」、と記されている。ガリア人は、ケルト人の一派であるが、今でもギリシャ語では、フランスをガリアと呼んでいる。
イタリア語でミュンヘンはモナコとも呼び、英語ではミュニッヒとなる。
こういう背景があり、バイエルン王家の王様・選帝侯達は、国民の教育レベルを高める必要があると、ギムナジウムやその他学校を建て、芸術や様々な英才教育にも力を入れ、民主的で国民に人気のあった知的な王様が多く出ている。
ミュンヘンが学問、芸術の町と言われるのはここにその理由がある。ドイツのピサの成績は、今まで国内ではバイエルン州が1番であったが、昨年は旧東ドイツのザクセン州(州都ドレスデン)が1位、2位がバイエルンとなった。
ドイツは中央集権化を防ぐ為に、州毎に教育局を置き、教科書も異なる。
ドイツ統一後、バイエルン州の教育局は、隣のザクセン州の教育局や教師達の教育指導プログラムを作成してサポートした。以前NHK教育の「世界の教師達」の番組で、ミュンヘンの基礎学校の先生ウテ・アンドレセンさんの授業風景が紹介された。バイエルン放送局の援助も得て5人の先生に筆者が取材し、著書も多いアンドレセン先生が選ばれ、子供の人間としての尊厳を大切にし、子供達に大変信頼されていて魅力ある先生であった。NHK教育のディレクターは若い人だったが、カメラマンが熟練者であった。
このアンドレセン先生も、ザクセン州の教育者を教育する為の援助チームの1人になっている。
聖書に有名な言葉がある。「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより困難である。」キリスト教徒の限界のない金に対する欲望が経済危機の原因となったと、教会関係、修道院、心理学者、ジャーナリスト達から、教会批判と反省の声が今強く出ている。この罪はあまりにも大きすぎる。
キリスト教徒のおぞましい歴史を考える時、35歳で磔で処刑されたイエスと、80歳で枯れ木の如く自然死した釈迦では、この年齢差にも大きな文化の成熟度の差がどこかにあるのを感じるのは筆者だけではないと思う。
(ミュンヘン在住)ながやベックマンけいこ
カトリック教会で一番古く、西ヨーロッパでは一番古い歴史を持つ修道会がベネディクト会である。529年ヌルシアの聖ベネディクトが、ローマの南方の山、モンテ・カッシーノに創立したのが始まりで、彼の妹スコラステイカも同じ規律内容で女子修道院を開いている。
修道院はドイツ語でクロスタ―と言うが、修道士はモンヒ、子供の修道士を
モンヒェンと言い、これがなまってこの地域をミュンヘンと呼ぶようになった。
ミュンヘンの名前が文献に初めて見られるのは1158年であるが、14世紀になって子供の修道士がミュンヘン市の紋章に取り入れられた。
ミュンヘンの新市庁舎(1867-1909)は戦争の折に、旧市内は全滅だったがこれだけは残り、80mの尖塔の一番上には、子供の修道士が両手を広げ、左手に宣誓書、右手は誓いの指で立てられている。大変真面目なシンボルである。
修道服が黒なので「黒い修道士」と呼ばれたが、胸のところに黄色い十字のストライプは入っている。ここから、ミュンヘン市の旗は、黒と黄色(現在は金色)の2色の旗になっている。ちなみに、州の旗は自由のシンボル青と白、ドイツの三色国旗は黒、赤、黄色(金色)その意味は、国民の勤勉と力、国民の熱情、国民の最高の名誉を意味している。
「聖ベネディクトの戒律」は、大変厳しく、それまでのように個人中心の考え方ではなく、清貧、貞潔、従順、定住を大切にし、共同の修道生活規範を守り、私有財産は一切持たず、労働と祈りと学びを中心とする生活を始め、これは現在までも続けられている。日本の禅寺との交流も為されている。
6世紀以降は、キリスト教の布教の他古代文化や学問の保存、研究に大いに貢献して、ありとあらゆる学問芸術の中心地となり、ワイン、ビール、薬草の研究などでも知られるが、現在は寄宿舎付の有名な学校もある。
この修道士や王侯貴族達しかラテン語の文字を判読できず、1517年マルチンルターが苦労してラテン語からドイツ語に新訳聖書を翻訳し、初めてここにドイツ語の基礎が出来上がる。市民は文字が読めず、目印に屋号が発達し、ロマンチック街道の中世の街ローテンブルグ(赤い城砦)やディンケルスビュール(小麦の岡)には、鉄の屋号が多くぶら下がり残る。(現在は装飾用)
南ドイツに関する一番古い文献は、紀元前58年から51年にかけて8年間に渡るガリア遠征を、ユリウス・カエサル(英語読みがシーザー)が自らの手で書き残した「ガリア戦記」で、「アルプスを越えるとそこは、暗い森と湿原沼地の多い所」、と記されている。ガリア人は、ケルト人の一派であるが、今でもギリシャ語では、フランスをガリアと呼んでいる。
イタリア語でミュンヘンはモナコとも呼び、英語ではミュニッヒとなる。
こういう背景があり、バイエルン王家の王様・選帝侯達は、国民の教育レベルを高める必要があると、ギムナジウムやその他学校を建て、芸術や様々な英才教育にも力を入れ、民主的で国民に人気のあった知的な王様が多く出ている。
ミュンヘンが学問、芸術の町と言われるのはここにその理由がある。ドイツのピサの成績は、今まで国内ではバイエルン州が1番であったが、昨年は旧東ドイツのザクセン州(州都ドレスデン)が1位、2位がバイエルンとなった。
ドイツは中央集権化を防ぐ為に、州毎に教育局を置き、教科書も異なる。
ドイツ統一後、バイエルン州の教育局は、隣のザクセン州の教育局や教師達の教育指導プログラムを作成してサポートした。以前NHK教育の「世界の教師達」の番組で、ミュンヘンの基礎学校の先生ウテ・アンドレセンさんの授業風景が紹介された。バイエルン放送局の援助も得て5人の先生に筆者が取材し、著書も多いアンドレセン先生が選ばれ、子供の人間としての尊厳を大切にし、子供達に大変信頼されていて魅力ある先生であった。NHK教育のディレクターは若い人だったが、カメラマンが熟練者であった。
このアンドレセン先生も、ザクセン州の教育者を教育する為の援助チームの1人になっている。
聖書に有名な言葉がある。「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより困難である。」キリスト教徒の限界のない金に対する欲望が経済危機の原因となったと、教会関係、修道院、心理学者、ジャーナリスト達から、教会批判と反省の声が今強く出ている。この罪はあまりにも大きすぎる。
キリスト教徒のおぞましい歴史を考える時、35歳で磔で処刑されたイエスと、80歳で枯れ木の如く自然死した釈迦では、この年齢差にも大きな文化の成熟度の差がどこかにあるのを感じるのは筆者だけではないと思う。
(ミュンヘン在住)ながやベックマンけいこ
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